怒りこそ生命の特徴
(初期仏教的解釈)
http://matome.naver.jp/odai/2139696644726606101
2 生命あるリス
生命科学では、
生命の要件は
1.細胞からなりたっており
周りとやりとりできる境界を持つ
2 自立した代謝を行う
3 自らの力で自己を複製し、子孫を残す
であった
⇒
http://tadnakada.blogspot.jp/2013/08/blog-post.html
ところが
初期仏教での定義はすこぶる簡単で、
「命とは 感覚があること」
だと言う
つまり生命とは感覚を持った物質(組織)
ということができる
組織は主にタンパク質と水の合金*
で出来上がっており
修復機能など生命機能を持っている
*中田力「脳の中の水分子」紀伊国屋書店
生命が呼吸をするのは
呼吸しないと苦るしいからである
また苦は生命の危険回避の反応ということもできる
例えば、熱いものに触れた時、酸っぱいものを
口に入れた時
逆に楽とは苦からの解放であるが
実は
一瞬新しい苦に乗り換えただけの話であって
しばらく経つと新たな苦に変わってくる
これはすぐ経験できる
空気を吸ったままでは苦しくなってくるので
息を吐くと楽になるが、
息を吐いたままでいると、今度は苦しくなってくる
一方
世の中(環境)は無常(ものごとが瞬間瞬間で変化し生滅していく)であり:諸行無常
人が管理することができない
生命自身には望みがあるが、
環境(世)は常に変化し無常である
そこで
生命と環境(現実)に隔たり(苦)ができる
この隔たり(苦)への反応が「怒り」である
苦は嫌だという感情が「怒り」である
つまり 生きることは絶え間ない苦である
したがって怒りも絶え間ない
「生きることは苦」がブッダの発見であった
苦から逃れるには「覚り」しかない
「無執着の心」が生まれなければならない
ハーモニー
無常を知り
「何だ そんなものか」
「それならしがみついたって価値がない」
何があっても「ああ そうかい」・・・
ここで無執着のこころが生まれる
これを覚りと言う
覚ると一切の苦しみがなくなる
「怒りの終焉」である
ホワイトクリスマス
人は自我を持っていると教えられ
自我は大切であると教えられた
しかしブッダは
「自我は錯覚であり、自我はない」
という:諸法無我
この世のどこにも絶対的な自己の存在など無い
だから
「人間は怒る必要も 威張る必要もない」
とわかる
参考:アルボムッレ・スマナサーラ「怒らないこと2」サンガ新書
佐々木閑「真理のことば」NHK出版
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