生きるとは苦しみ
苦はよりよく生きるため
宝善寺にて
初期仏教では
「生命とは感覚のあること」であった⇒
感覚とは
視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚 の五感覚
意識(心・意)を加えると六感覚
である
救急では
意識があるかどうか(聞こえるかどうか)
と
息をしているかどうか
心臓が動いているかどうか
意識があるかどうか(聞こえるかどうか)
と
息をしているかどうか
心臓が動いているかどうか
を人の状態の判断基準にしていますね
釈迦のこの世の分類「十二処」
によれば、
認識される対象(この世)は6個(六境)あり
色、声、香、味、触、法
認識器官は6個(六根)ある
眼、耳、鼻、舌、身、意
「意」は認識器官としての心です
「法」は心の対象で
この世(の存在要素)のこと
十二処
釈迦のこの世の分類「十二処」
によれば、
認識される対象(この世)は6個(六境)あり
色、声、香、味、触、法
認識器官は6個(六根)ある
眼、耳、鼻、舌、身、意
「意」は認識器官としての心です
「法」は心の対象で
この世(の存在要素)のこと
十二処
六感が感覚を察知して
苦を認識するのは心(意)です
また認識する機能・働きを心と言ってもいい
また認識する機能・働きを心と言ってもいい
身体はそれに反応し行動します
「空腹感」を感じると
これは「苦」です
お腹や身体全体に嫌な感じが生まれて
変えたいと思い
手に入れて、食物を食べ始めます
手に入れて、食物を食べ始めます
食べ終わり、満足感を感じると
食べることをやめます
今度は「食べる」ことが「苦」になったのです
空腹という苦がなくなると
楽しいと感じるのではなく
満腹を苦しいと感じるのです
「苦があるから楽が起こる」
空腹という苦がなくなると
楽しいと感じるのではなく
満腹を苦しいと感じるのです
「苦があるから楽が起こる」
「楽しみは苦の置き換えです」
一個目のおにぎりを食べることは
最高においしい「楽」です
最高においしい「楽」です
二個目、三個目はそうでもありませんが
やがて満足します
やがて満足します
「苦」はなくなりました
もう、四個目のおにぎりは食べたくありません
食べることが「苦」になります
楽しいのは最初だけです
「楽」が「苦」に変わりました
楽しみはすぐ消えて持続しません
原始仏教では
「苦」も「楽」も苦しみです
「一切皆苦」です
楽しいのは最初だけです
「楽」が「苦」に変わりました
楽しみはすぐ消えて持続しません
原始仏教では
「苦」も「楽」も苦しみです
「一切皆苦」です
なぜ呼吸するか?
止めると「苦しい」からです
生きるプログラムは
「これを変えなさい」と
命令します
もし、呼吸しないことが「快感」だったら
死んでしまいます
だから
苦しみは生命にとって
「危険回避の反応」といえます
だから
苦しみは生命にとって
「危険回避の反応」といえます
「苦」がなければ命が続きません
生きるとは「苦しみ」のことです
「苦」があるから生き続けるのです
また
生きるとは、
既存の「苦」を「新たな苦」に置き換えることです
苦の変換といえます
満足しきることはありません
生きるとは
苦→楽→苦→楽→苦
の連続です
苦と楽の連鎖です
苦と楽の連鎖です
連鎖が途切れた時が
死です
そう思います
また 苦楽は増幅する傾向(性質)があります
欲のせいです
お釈迦様は
「正しい思考を意図的にしなさい」
とおっしゃいます
「欲しいな」と思ったら
「あってもかえって迷惑でしょう」と
欲をなくす方向へ
思考を持っていきます
「怒り」に対しても同じです
「苦」を感じたら、感謝しましょう
安保徹先生なら、
「苦さん、来てくれてご苦労さん」と
いうと思います
そう思います
また 苦楽は増幅する傾向(性質)があります
欲のせいです
お釈迦様は
「正しい思考を意図的にしなさい」
とおっしゃいます
「欲しいな」と思ったら
「あってもかえって迷惑でしょう」と
欲をなくす方向へ
思考を持っていきます
「怒り」に対しても同じです
「苦」を感じたら、感謝しましょう
安保徹先生なら、
「苦さん、来てくれてご苦労さん」と
いうと思います
Tadahiro Nakada
「人生は苦である。それは聖なる真理である」
お釈迦様が発見しました
ではどう生きればよいか
ひとつは「今を生きる」ことです
今やるべきことをする
二つ目は
「くよくよしない」ことです
これは長生きの秘訣です
生活態度は
「今日は残りの人生の最初の日
怒らず、怖れず、悲しまず」
怒らず、怖れず、悲しまず」
です
アルボムッレ・スマナサーラ「苦の見方」サンガ新書
佐々木閑「般若心経」NHK出版
中村元「原始仏教」NHK出版
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